海洋浴の郷「下田」
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1.開港ってナニ?
 そう、幕末に黒船が下田に入港するよりももっとずっと前から、下田は港町だった。下田の港は開かれていたのさ。
しかし、ここで言う「下田開港150周年」の開港は、ちょっと違うんだ。たしかに港を開くという意味ではあるけれども、その対象が日本の船だけではなく、外国船に対しても港を開く、つまり外国の船が入港できるということなんだ。それは外国人とも交流を始めるということなんだ。
 それまで日本人は、この小さな列島の中で、それも同じ日本人だけで、交流していたんだ。鎖国いう体制のもとで(長崎という例外は、あったけれどもね)215年間も国際的に孤立していた日本国が、その鎖国をやめて国際社会に参加していくことを、外国人とも交流していくことを、新たな決意をもって決めたということなんだ。
 この大変革を決定づけたものが、今から150年ほど前の嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親条約だったのさ。そしてその第2条によって、下田と箱館(今の函館)の2港が開かれることとなり、下田は即時開港、箱館は翌年3月開港とされ、我が下田は日本で最初の開港場となったというわけさ。安政6年12月8日(1859年12月31日)までの5年と9ヶ月ほどの短い期間ではあったけれどもね。
2.下田が開港場に選ばれたのはなんで?
 日本とアメリカとが条約交渉している過程で、ペリーは5港の開港を日本に要求したんだ。(結果としては、それが2港になったんだけどもね。)そのなかには浦賀も入っていたんだ。浦賀(現横須賀市)は、浦賀水道というその名が今も残されている江戸湾(現東京湾)の入口に位置していたんだ。当然江戸はすぐ目の前。日本よりも強力な武力をもつ諸外国を警戒して、将軍様のおられる江戸のおひざもと、江戸湾の開港にはどんなことがあっても同意できなかったというわけなんだ。そこで幕府は、江戸から近くもなく、それでいて遠くもない所として、下田港を推薦したんだ。下田が幕府にとっても重要な港であった歴史をも勘案されてのことだけれどもね。
 では、その重要な港であった歴史について簡単に話してみようか。
それは第2代将軍徳川秀忠の時代の元和2(1616)年のことなんだ。大阪城が落ち、豊臣秀頼・淀君が自殺し、徳川の時代が始まった翌年のことなんだ。海上交通の要所ということで、下田奉行が初めて置かれ、不審な廻船の検問をするために須崎の越瀬に遠見番所が置かれたんだ。
 そしてその20年後の寛永13(1636)年、番所は大浦に移されたんだ。増加していく廻船の江戸往復に対して、入り鉄砲、出女等の厳重なチェックをするため、船改番所が置かれたんだ。陸の関所箱根に対して海の関所としてね。 (その当時の下田は出船入船3千艘といわれ、繁栄を誇り、全国でも有数な港町だったといわれているんだ。)享保6(1721)年、浦賀に御番所が移るまでの100年有余もの長い間下田奉行が置かれていた町だったんだ。  
 その後も、天保13(1842)年に再び下田奉行が置かれたんだよ。でもこの時は、弘化元(1844)年、下田が開港する10年前に廃止となってしまったんだ。短い期間だったけどね。
 まあ、そんなわけで、浦賀の替わりに下田を強く推す幕府に対して、ペリーは条約締結前にヴァンダリアとサザムプトンの2隻を下田に派遣して、開港場として適しているかどうか調査させたんだ。そして下田港が安全で、船の出入りに便利なこと等報告され、ペリーは満足して同意し、下田開港となったというわけなのさ
3.ペリー艦隊と下田
 合計1265人ものアメリカ人を乗せて下田湾に「入港」したペリー艦隊7隻が、下田港から去っていった6月2日までの74日の間には、「下田奉行設置」「アメリカ人上陸」「吉田松陰・金子重輔の密航事件」「ポーハタン等5隻による箱館港への事前調査」「日米和親条約附録下田条約調印」、そして「欠乏品供給と共にその名目による事実上の貿易開始」等々、行われたんだよ。
(1) 黒船7隻入港
 「泰平のねむりをさます上喜撰(蒸気船)」って、知ってるだろう。「たった4はい(4隻)で夜も眠れず」ってやつさ。この歌は、下田開港の前年、ペリーが軍艦4隻を率いて江戸湾に入ってきたときに作られたものだと思うけれども、その後嘉永7年3月3日に結んだ日米和親条約によって即時開港された下田湾には、4隻ではなく7隻も入ってきたんだ。当時の下田の人々の驚きはどんなだっただろうね。今で言えば、宇宙のはるか彼方の惑星から、それぞれ型も大きさも違った7機のユーホーが下田に飛来してきたような、そんな恐ろしさと興味をも芽生えさせた、大きな、とてつもなく大きな驚きだったのではないだろうか。
 まず3月18日には、サザンプトンとサプライの2隻が入港、そしてその2日後の20日には、レキシントンとバンダリアが、そしてその翌日の21日には、ペリー提督が乗っている旗艦ポーハタンとミシシッピーの巨艦2隻が入港して、当時の下田の人々の驚きは、頂点に達したのではないだろうか。そして最後の1隻、マセドニアンは、すこし遅れて4月5日に入港したんだ。(なんでかって?米水兵達の食料を調達する為、小笠原まで行って海亀70匹と大鯨2頭を獲ってきたので遅れたということだよ。)
  当時の日本の帆船、千石船は最も大きくても100トンほどだったらしいよ。だから今の船でいうと、下田湾を周遊しているあの黒船を模した観光船サスケハナが127トンだから、それでちょっと想像してみてよ。そしてその上で比べてみよう。7隻の内で最も総トン数が少なかったサプライでさえ、その5倍以上、最も重かったポーハタンは、その24倍をも超えているんだ。当時の人々にとっては、見たこともない大きな船だったわけだ。(参考までに言うと、今、下田から新島や神津島にいくアゼリア丸は、1460トンとのこと。ポーハタン、ミシシッピー、マセドニアンはそれ以上のトン数だったんだからね。)そしてその上に、それらの船には大砲をも備えられていたんだからね。動く砲台だね。目の前の下田湾に突然見知らぬ国の砲台が出来たようなものだね。そして、たとえばポーハタンひとつとっても9門の大砲を備えていたんだからね。
 ところで、当時の下田の人々にとって、サザンプトンとバンダリアそれら2隻とは、初めての出会いではなかったんだよね。条約締結前の事前調査に来航してたからね。でも、これらの帆船とは違って時代の最先端を走っていた蒸気船(ポーハタンとミシシッピー)には、初お目見えで、その不気味な黒い色と3本マスト(千石船は1本マスト)そしてその大砲に加えて、黒い煙を吐く煙突、左右両弦にある水車のような大きな外輪、そしてその大きさにはまたまた驚かされたことだろうね。そして、その時初めて、蒸気を人工的につくってその力を船や機関車等の大きな乗り物にも利用する、そんな一歩進んでいた異文化が下田にも入港してきたんだよね。圧倒的な武力と共にね。
(2)下田奉行設置
 嘉永7年(1854)3月24日、日本で最初の開港場となった下田に、急きょ下田奉行が復活して、それまで浦賀奉行であった伊沢美作守が任命され、4月22日には、もう1人、それまで佐渡奉行であった都筑駿河守が任命され、下田奉行は2人制とされたんだ。そしてその仕事は、治安の維持と、まずはペリー提督、つまりアメリカとの折衝だったんだ。薪、水、食料、石炭等の欠乏品を供給するのも下田奉行の仕事だったんだ。大変な仕事だったようだよ。(ところで余談になるけれども、伊沢美作守が着任したのは5月8日、それまでは、浦賀奉行支配組頭の黒川嘉兵衛が応接していたんだ。ヴァンダリアとサザムプトンの2隻が事前調査の為に下田に入港したときも、3月18日からペリー艦隊7隻が順次入港してきた時も、ペリー及びその隊員が下田に上陸した時も、そして吉田松陰が密航しようとしたときもね。)
 そして下田奉行は、その後、岡田備中守、井上信濃守と続き、中村出羽守を最後に安政7年3月15日廃止となったんだ。約6年間の下田奉行だったんだ。
それは玉泉寺にあった下田総領事館が閉鎖されて、江戸麻布善福寺が公使館となり、自由貿易港として、神奈川と箱館が開港され、下田港閉鎖となったその翌年のことなんだ。
 「奉行所はどこにあったかって?」
 はじめに仮奉行所が宝福寺に、そしてその後に稲田寺に置かれたといわれているんだ。そしてそれら仮奉行所の後に、安政2年、中村奉行所が建てられたんだ。その跡地は今、公園となっているんだ。場所は現在の東中地区にあり、下田警察署の裏の方に位置しているんだ。
(3) アメリカ人上陸
 下田奉行が置かれた嘉永7(1853)年3月24日、その日にペリー提督は、わずか7人を随行させて上陸し、了仙寺で黒川嘉兵衛(浦賀奉行支配組頭)から、お茶の接待(保命酒、九年母《みかんの一種》、菓子等)をうけた。そのときは、境内はもちろんお寺の奥の庭まで、お寺中が見物の男女群集で隙間もないほどだった。「見物したい人はしてもよし」ということだったから。その20日前には、韮山代官手代からの「大至急」という書状には「外国人が上陸しているときは、人家は戸障子をかたくしめきり、店屋は商品を片付けて、人家に外国人が立ち入らないように、飼っている牛を外国人に見られないように、女性は勿論外出禁止、男性でも用心して、見物のために外に出たりしないように」と書かれていた。
 しかしその旺盛な好奇心は、戸を閉じてふし穴からのぞいているだけでは満足させることが出来なくなってしまったんだろう。それに下田の人々は、その前にサザンプトンとバンダリアの事前調査の際、幕府の意に反して上陸したアメリカ人とすでに接触している。そしてやはり好奇心をもつ彼らアメリカ人達も、下田の町を散策し、所々で道を聞いたり(その時、言葉がうまく通じたかどうかはわからないけれども)、タバコやお茶をよばれたりした。そしてそのお礼にと、アメリカ人はよくボタンを置いていった。着物にはボタンがないので珍重された。このとき、もう交流は始まっていたんだ。
 ペリーが上陸したその翌日からは、大勢のアメリカ人達がボートで柿崎に上陸した。3,4人づつ、一組となって、それぞれ散策し、家々にも立ち寄った。本郷では、一人のアメリカ人が菜種をくれた。ボタンではなくてね。
 アメリカ人にすぐ慣れた下田の人々は、士官の制服のボタンや剣等にさわったり、それらを英語でなんというのか、手まねで尋ねたりもした。
 そんな親しみをもって交流する下田の人々に対して、役人は、アメリカ人から物を貰うことを禁じ、そしてアメリカ人に尾行し、近づこうとする下田の人々を追い払った。それに対してペリー側は強く抗議し、その後、尾行はゆるくされ、下田の人々も、アメリカ人がきても逃げたり、かくれたりする必要がなくなり、また町はにぎやかになったという。
また一方で、ペリーは上陸する2日前(入港した翌日)に、無許可で上陸し、酒を飲んできた2人の水兵を罰し、全員に規律を守るように訓令していた。上陸してから下田の人々と争い等ないようにと。
 このペリー艦隊員の上陸は、下田湾の犬走島から7里以内はどこへでも自由に行くことができる、という日米和親条約第5条によるもので、それによって下田が日本で初めて外国人との自由交流を認められた町となったんだ。
 またその際、多くの海藻や陸上の植物等も下田で蒐集され、標本として今日までアメリカで保存されていることをも付け加えておこう。
(4) 海外渡航にチャレンジした青年
 今、日本人は誰でも海外に行くことができる。けれどもその当時は国外に出ることは禁止、国法を犯すことで、打首となる可能性が大きかった。まだ鎖国のとびらがほんの少し開いたばかりの時だったから。そんな時代に海外に行こうとした人達がいた。あの恐ろしい蒸気船に乗って。吉田松陰とその弟子金子重輔だ。
二人が下田についたのは嘉永7(1853)年3月18日(ペリー艦隊の第一陣2隻が入港した日)、そして3月27日、二人は柿崎でアメリカ人士官の上着の胸に手紙を差入れるとすぐに立去り、その夜、柿崎弁天のほこらで眠り、満潮になって小船を波高い下田湾にこぎだした。深夜2時頃(3月28日)慣れない櫓でやっとミシシッピーまで漕ぎつくと、旗艦ポーハタンへいけと言われ、どうにかポーハタンのタラップ近くに着き、まず松陰が、次いで重輔がタラップに飛び移った。その際、乗ってきた小舟はアメリカ水兵の棹に突き放されて流失してしまった。刀や荷物を取る間もなかった。
それでもなんとか乗船できた松陰等は筆談で、通訳のウイリアムズを通じて、アメリカまで乗船させてほしいとお願いした。ウイリアムズの「アメリカで何をする」という問いに「学問をする」と答えている。前日の松陰等からの手紙に、世界を周遊しようという望みをもっていること、船内ではどんな仕事でもするから乗せていってほしいこと、もしもこれらのことが知れると打首となる事等が書かれていることをペリーもウイリアムズもすでに知ってはいたが、この大事な時期に日本の国法を無視することも出来ず、ペリーは、その志には大いに感動しながらも「幕府から許可を得た者でなければ」ということで、やむなく乗船を断った。そして人目につかないよう、まだ暗いうちに二人を福浦までボートで送らせた。
夜が明けて二人は海岸を見まわったが、密航の証拠ともなる二人の刀等をのせた小舟は見つからず、うろついている間に捕まるのも見苦しいからと、自首した二人は下田番所のとらわれ人となった。それは危機的状況にあった日本という国家を救い、自立した強い国にしたいという思いから密航を企てた二人にとって、その短い生涯を終えるまでずっと続いた獄中と軟禁生活のはじまりとなった。
下田の長命寺から平滑の獄、そして天城を超えて江戸伝馬町の獄へ、その後ふるさと萩の野山獄に松陰、道向かいの岩倉獄に重輔が入れられ、その2ヵ月後、安政2(1855)年正月11日、金子重輔は獄中で病死した。25歳の短い生涯ではあった。同年12月15日、松陰は野山獄を出て実父杉百合之助宅に制限つきであずけられ、安政6(1859)年10月27日、江戸伝馬町の獄にて、新たな時代をと生き抜いてきたその尊い生命は断たれた。
下田湾からアメリカを目指してから6年後のことだった。その6年の内には、松下村塾での教育があり、松陰の魂は弟子達に受けつがれ、その弟子達によって、新たな時代、明治がつくられたんだ。
この下田湾から新たな世界を、新たな時代を目指して飛び立とうとした人達がいたことを、忘れてはならない。
(5) 日米和親条約附録下田条約
 ペリーが箱館港調査からもどってきた翌日、嘉永7年5月13日(1854年6月8日)から、日米和親条約附録下田条約の交渉は始まり、25日(1854年6月20日)ペリー提督と林大学頭以下7名の日本全権により下田の了仙寺において、条約書が交換された。この条約は日米和親条約を受けて細目13ヶ条から成っており、7里以内の関門出入りの保障、上陸場所3ヵ所(下田、柿崎他)の設定、休息所(了仙寺、玉泉寺)、埋葬所(玉泉寺)の設置、所用品売買の取扱い、港内水先案内人の設置等が主とされている。
 参考までに、その交渉の始まりの5月13日、まず17発の礼砲をとどろかせて驚かし、その中、ボートを連ね、ペリーは下田に上陸した。大砲4門をひく砲兵隊を先頭に、軍楽隊、士官、剣つき鉄砲等もった、総勢三百人をこえる大行列であった。その様子を通訳のウィリアムズは記している。「上陸地点から了仙寺(交渉場所)までの沿道は人垣が連なり、我々が行進を開始すると、彼らはがやがやおしゃべりを始め、あたかもたくさんの蜜蜂の巣箱をつっついたような騒ぎになった」と。
 また了仙寺本堂における交渉では、日本側は畳を積み重ねた上に正座して、椅子に座ったアメリカ側と目の高さを合わせたという。双方の生活の違いがでていておもしろい。
(6) 欠乏所供給(=不足しているものを補うこと)
開港された下田では、航海上必要とする水、食料、燃料等をアメリカ側が買うことができる(日米和親条約第2条)だけではなく、その他アメリカ側で必要とするものに対しては、日米双方による話合いで決めることが出来(日米和親条約第6条)、その支払いは金貨、銀貨、品物等による(日米和親条約第7条)とされており、下田において1ドルを日本銀16匁(もんめ)替えと改められた。その後もこの日米の貨幣交換比率は変化していく。
それよりも、どんなものを買っていったのかって?
そう、アメリカ人はみやげものとして美術工芸品(貝細工物、塗物、瀬戸物、竹細工、色ちりめん類等の太物等々)を欲しがり、和紙、下駄、蛇の目傘から半鐘までも買い込んだ。彼らもまた日本という異文化の香りに酔いしれたのかも。しかしこれらのものをアメリカ人に売るとき、現在のように代金をその商店が直接受取り、その商品を直接手渡すということは出来なかった。アメリカ人との取引は、その地の役人がする(日米和親条約第8条)ことになっていたから。アメリカ人が買いたい商品は、その商店から役人に渡され、役人からアメリカ人に渡され、そのアメリカ人から役人が代金を受取って、その商店にわたされる。そんなやりかたをしていた。参考までに、下田に入港したペリー艦隊全7隻が去っていった嘉永7年6月2日以降、閏7月までに入港したアメリカ商船レデイ・ピアース号、そしてサスケハナ、サザンプトン、ミシシッピー等の諸アメリカ船にも、塗物や焼物、竹細工等が積みこまれたようだ。
安政6年6月神奈川、箱館、長崎が自由貿易港として開港されると、下田欠乏所はその役目を終え、廃止された。5年という短い期間であった。
4、日米批准書(全権委員が署名調印した条約を元首その他国内法上定まった者が確認した条約書)の交換
 日米和親条約調印の4日後、嘉永7年3月7日(1854、4,4)サラトガに乗ってアメリカに向かったアダムス中佐は、今度はポーハタンに乗り、日米和親条約批准書を持って、下田に入港した。安政元年12月9日(1855、1、26)のこと。下田の町は1ヶ月程前に起きた津波に痛めつけられ、まだその傷跡を残してはいたが、着々と取り片付けと再建が行われていた。またロシアのプチャーチン一行約5百人が、デイアナ号遭難、沈没のため、戸田村に全員無事収容された翌日のことである。会談は同18日から翌年正月4日まで6回、長楽寺とポーハタンにおいて、批准の時期、署名者、委任状等について話しあわれた。会談は順調には進まず、アダムスをいらだたせた。誤訳により批准時期18ヶ月以内を以後と日本側が錯覚、その上、長い鎖国により外交慣例にうとくなっていた日本側が署名者を下田奉行ですまそうとしようとしたこと等の為。アダムスは彼自身への委任状及び批准書に大統領の署名があることを井戸対馬守に確認させ、公方(天皇、征夷大将軍)の署名を求めた。しかし最終的には「公方家の威令《=威力のある命令》を以って」阿部伊勢守(=老中筆頭)の署名、でアダムスは妥協し、ようやっと幕府初めての外交文書が整った。安政2年正月5日、長楽寺にて批准書交換式が行われ、その際「附録下田条約批准書」も日本側からアメリカ側に渡され、アメリカ側からは日本へ来航するアメリカ船で今後なるべく早く持参し差出す約束がされた。その日の午後、アダムスは井戸対馬守等日本側代表をポーハタンに招き饗応した。前側の帆柱には日本国旗を高く掲げ、祝砲を放ち、音楽を奏して迎え、批准完了の祝盃をあげた。翌6日の朝8時頃、1ヶ月程の停泊を終えて、アダムスの乗るポーハタンは下田を去っていった。この間、玉泉寺に残っていたロシアのポシエートからデイアナ号遭難、沈没の一部始終を聞いたポーハタン艦長マク・クルニーは、ロシア側に食料を贈っている。またフランス船ナポレオン号が紀州の漂流民2人を送還のため12日に下田に入港したが、下田奉行は、日仏間にまだ条約が結ばれていない為、入港を認めず、即時出港をせまり、漂流民の受取りをも拒んだ。その時、アダムス中佐とマク・クル?ニ艦長は、漂流民を米艦ポ?ハタンに受取り、アメリカ側から引渡すということで下田奉行の了解を得ている。参考までに、このフランス船はロシア人のいることを知ってその夜急いで出港した為、その翌々日の14日早暁、武装して戸田からボ?トで乗込んできたロシア兵との戦いを回避できたのは幸いであった。(この時、ロシアとフランスはクリミヤ戦争で対戦中だった。)
下田開港150周年記念ホームページより
資料提供:下田市「了仙寺」
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